みのむしXのブログ

過去のあれこれと。日々思ったことをとりあえずは書いていく。

疫病退散的な世の中

観光地の神社では疫病退散の祈祷が行われているらしい。まさに神頼み。
これが何かや誰かの祟りとかまでは行かずとも、近しい風説や噂、陰謀論が出てきているように感じる。

 

身近なところでは都心はもちろん郊外の方もマスクが無くなってきている。
奈良の大仏が作られるきっかけなった奈良時代天平の大飢饉も疫病(たしか天然痘)が原因だった。

 

病気もそのものも問題ではあるけど、それによる飢饉や人心の乱れこそが一番恐ろしい。 
ゾンビ映画でもこの辺は定番のところ。

教科書で見たオイルショックの時のトイレットペーパーの買い占めなんか、関係ない事のように感じてたけど、311の後の食料品の買い占めや、今回のことを見ていると、簡単にパニックは起きかねないと思える。

 

こういう時には必ず恐怖を煽ったり、人を先導するような輩が湧いて出てくる。

映画ミストの狂信的なババァとか、その他の手合にはとにかく注意したい。

 

今のところは大きな混乱はないけれど、国内で感染が広がるにつれて、事態はもっと切迫したものになるように思える。また、長期化すると経済的にもさらに大きな影響を生むと思われる。

去年の台風やらの天災といい、インフラや社会の脆さが露呈するようなことが多い。

そういう時に社会不安が広がるのは理解できるけど、こういうときこそ足元を救われないないようにしたい。

スタウォーズエピソード9は感じるしかない映画

スターウォーズエピソード9を観てきた。

気になる事は山ほどあるけど楽しめた。

足りない事は自分で感じて行間を埋めるしかない。というか、妄想で埋めて良いように解釈する。そんな感じ。

スターウォーズは“神話”なので聖書の解釈みたいなもんです。

 

細かな感想はここでは書かない。

スターウォーズは映画であると同時に存在自体が“伝説”であり“神話”だ。

冷静に考えれば映画自体の出来は今シリーズを除いてもエピソード6、1、2、3あたりは微妙な所が多々ある。

最初のエピソード4の映像、デザインにおける革新さや、同時代の映画と比較してわかりやすく楽しみやすいストーリーなどは幾らでも語られ分析されてる。

では、スターウォーズをこの時代にどう楽しむべきか。そこにはメタ的な視点が必要だと思う。ルーカスからディズニーに引き継がれたスターウォーズを新しい世代の作り手がどうするか。様々な世代の観客がどう受け止めたかも含めて楽しむ必要があると思う。

 

エピソード9では新たに何人かのキャラクターが登場した。本編では他のキャラクターとの関係性は描かれたが、詳しい背景は描かれなかった。これらのキャラクターは間違いなく今後、ディズニーによって、スピンオフとして映画やドラマで掘り下げ商売しにしていくと確信している。

おそらく、ディズニー的には同じスターウォーズの世界を共有したMCU的な事を今後は展開するつもりではないかと思っている。

いかにもディズニーらしいやり口でこれ自体にも賛否はある。しかし、これによって映画の今シリーズが補完されたり、捉え方も変わってくる。これらのスピンオフは聖書における使徒による黙示録的な立ち位置になるはずた。

そんで個人的にはなんだかんだ言いながら楽しんじゃうと思う。

 

結局のところ僕が今作で一番楽しんだのは、映画自体以上に見る前と見た後の人との会話だった。人それぞれの予想や、見た後の解釈。これが一番面白い。

今ほど娯楽が無い頃の映画はこんな感じだったのだと思った。

そういう意味では映画としてもスターウォーズは特別でオンリーワンな存在だと再確認できた。

リアルタイムでスターウォーズの新作が見られて、感想や意見を共有できる。これほど幸せな事はなかなか無い。

そんな事を是非、片隅に置いて皆さんにも楽しんで欲しい。

 

 

 

 

 

グレタさん周りに感じるカルトっぽさ

何かと最近話題の環境保護活動家のグレタ・トゥーンベリさんに関して感じること。

僕は近い将来今のイスラム過激派のテロみたいな事を、環境保護過激派がやりかねないと思っている。火力発電所の爆破とか、成功するかは別としてやると思う。 

映画のゴジラキングオブモンスターとかSF映画やアニメにはこの手の環境テロリストはけっこう登場したりもする。

 

現状でもグレタさんを批判したり、皮肉っている人もいるが、グレタさんの支持者から攻撃を受けている様子が見受けられる。

その批判に「大人気ない」とか「環境に無関心なバガ」みたいな意見が見られる。この二つの方向性の批判はかなり危険だと思う。

 

「大人気ない」これ系の批判はまさに、グレタさんが子供である事を利用して、グレタさんを批判あるいは皮肉った大人を貶めるニュアンスで使われる。

子供に限らず、特性を利用して批判をさせないようにする事はある。

人種、性別、宗教でも同じような事があるけど、行きすぎると正当な批判まで封じ込めかねない。

結果、「面倒な人」「関わると損」という扱いになり分断を深める。

とくに「大人気ない」的批判は世代間の分断になりかねない。大人が悪い的な事は、わかりやすいし受けも良いだろうけど、凄く不毛に思える。

 

「環境に関心のないバガ」これ系の批判も同じく分断を深める。必ずしもグレタさんを批判する人=環境に関心がない人ではない。

僕もそうだが、環境保護は必要だと思う。けれどもグレタさん達のような過激で極端なやり方には抵抗を感じる。

 

この手の敵を増やすやり方は、自らの手法も先鋭化させていく。オウム真理教連合赤軍みたいに悲惨な結果を生む事がある。

 

主張の成否にかかわらず、過激化、カルト化したものには賛同したくはない。

グレタさんは、進歩的な人間か見抜くリトマス試験紙という意見をネットで見かけたが、支持者が進んでグレタさんという偶像を踏み絵にしているようで、浅はかで醜悪でしかないと思った。

韓国に対し感じるのは関わりたくないという気持ち

韓国に対し感じるのは関わりたくないという気持ちだ。

 

僕には韓国人の友達もいるし、韓国の映画は好きな作品がいくつもあり、最近の日本の大作実写映画よりクオリティも高いと思っている。

 

しかし、政治の事になるとウンザリする。

ネットでは熱心に嫌韓的な言説を発信している人たちもいるが、僕からすると彼らはもはや、嫌いすぎて好きになってる感じすらする。

たぶん、多くの日本人は僕と同じようにウンザリして、関わりたくないという想いが強いのではないのだろうか。

 

慰安婦やら徴用工、さらにホワイト国の除外と、両国の関係は戦後で最低な状況だと思う。

それぞれの個別具体的な、事実関係やら主張はもはや冷静に話し合える段階を過ぎてしまった感が強い。そもそも、スタートの時点で見てる方向が違うからどんどん食い違う。

日本は手続き的な解決を優先する一方で、韓国はあくまでも原罪に近いレベルで日本の戦争責任を正そうとする。

 

個人的にも、スポーツの試合における行き過ぎて幼稚な韓国の振る舞いなどには、正直かなり不快感を感じている。

勝っても負けても不快になる事が多いから迷惑極まりない。

 

好きの反対は嫌いではなく無関心と言う話もあるが、まさしく僕は韓国に対してもっと無関心でいたい。そして韓国も日本に対してもっと無関心でいてほしい。

 

人間関係でも同じだけど、本人達が関わらなくでも、第三者に悪口を言いふらしたり、みたいな事もあるから、そこも困ったところだ。

 

日本と韓国関係は歴史の積み重ねもあってあまりにウェット過ぎる。

問題を切り分けて、お互いに利がある事のみ割り切ってドライに協力できるような関係であってほしい。

歴史問題とかの解決は諦めて、話すのもやめた方が健康的に思える。

 

とはいえ、そんなことはどちらの国にもいる熱心な過激派が許してはくれないだろう。

 

ここまで拗れたのだから、いっそどうすればお互いに関わらずに済むかを今後は積極的に検討してほしい。

 

 

 

SNSが可視化したのは結局のところ社会の分断だと思う

SNSが可視化したのは結局のところ社会の分断だと思う。

2019年の参議院選で注目を集めた政党は、令和新撰組NHKから国民を守る党だった。

この2つの政党は性質や主張には大きな差があるが、支持者には根本の部分で共通する社会に対する認識があると感じる。

それは、既得権者に対する敵意と既存の権力からの疎外感だ。

どちらの政党もネットでの盛り上がりが大きかったことも似ている。

 

選挙以外にも、昨今のネットでは定着した感のある言葉に「上級国民」というものもある。

 

2000年代中盤まではネットやSNSは人と人を繋げて、他者との繋がりや理解を促進するような言説もあったが、結果としては似た者同士の村社会や、教祖と信者の関係性をネット上に再構成した。

 

そして、SNSは持つものと持たざる者を強烈に可視化した。フォロワー数やいいねの数という、戦闘力にも似た価値基準。

本来なら目にしなくて済んだような、良い暮らしや幸せな様子。

「上級国民」という言葉の発端にもなった、不平等に見える法の運用。

 

もちろん、不正が可視化されるなど良い面もあるが、多くの人は自分には手の届かない特権により、利益を得ていることの方に強く怒りや不平を感じる。

 

上級と思われる人がスキャンダルを起こすと、ここぞとばかり石を投げる。

そうして、とりあえずの溜飲を下げている。

結局はフランス革命で特権を持つ者をギロチン送りにしていった時代から、やってることの本質はそれほど変わっていない。

 

SNSがなければ知り得なかった情報はたくさんある。でも、知らなかった方が幸せだった事もたくさんある。可能性は時に人に不自由さと絶望感を与える。

 

この社会の分断は簡単に修復できるものではない。一度生まれた亀裂は大抵深まっていく。

選挙を通じてネットから現実を侵食し始めた亀裂はどこまで広がるかわからない。

どこかで妥協点を見出すか、折り合いをつけなければ、近い将来に本物のギロチンを見ることになるかもしれない。

令和新撰組にしても、N国党にしても、まだ動き始めたばかりで今後どうなるかはわからない。

これらが派手に失敗した時こそが、決定的なターニグポイントになりかねないと感じる。

支持者や不平を感じていた人たちがより、急進的な思想や行動に流れていく事にもなりかねない。

 

僕自身は特権の側に回れる可能性はあまりなさそうだ。かといって積極的に既得権者を叩きたいとも思わない。ある程度の距離感で適度に利益や旨みを得たいというのがクソみたいな正直な気持ちだ。

しかし、この分断はもはや避けられない段階に来ていると確信している。

おそらく、目を背けるためにいろいろな事が行われると思うが、それらは一時しのぎにしかならない。

遅かれ早かれフランスの黄色いベスト運動くらいの事は世界中でおこるし、それはもう止められない。

そうなった時僕はどちらの側にもつきたくないが、踏み絵を踏まされるような事が起こるかもしれない。そうなったらいよいよ世の中に嫌気がさしそうだ。

TBSラジオの小林豊アナの異動に関して感じた事

TBSラジオを日頃から好きで聴いている。

もちろん番組によってもは好き嫌いもあるが、気に入っている番組がいくつかある。

その中のひとつである「土曜ワイドナイツのチャキチャキ大放送」の中での中継を担当していた小林豊アナが、社内の異動に伴い番組を降板。本人の言い方によれば“アナウンサーは廃業”との事だった。

 

詳しくはこちらを読んでほしい

https://www.msn.com/ja-jp/entertainment/tv/tbs小林豊アナ「廃業です」異動前ラストあいさつでナイツ土屋and出水麻衣アナ号泣/ar-AADBv7f

 

小林豊アナの中継コーナーは、都内のいろいろなところに出かけて、素人にインタビューをして、割ときつめのイジリもするというような内容。

とても面白いのだが、あえてやっているのだけど、けっこう失礼な話し方や接し方とも取られる感じもあり、嫌悪感を強く感じる人もいただろうと思う。

個人的には概ね好きで、たまに不快感もあったけれど、それも含めて良い意味で少し古めな横暴さが魅力の中継コーナーだった。

特に最終回でも行われた豊島園での中継は毎回面白く、小林豊アナだからこそできる内容だった。

 

最終回の放送の中で小林豊アナは「二度と喋るかよTBS」と言った発言や、無許可でのTBS のお膝元である赤坂サカスからの中継をした。

一人のサラリーマンとしての振る舞いとしてはかなりまずい事だと思うし、今後の立場を悪化させかねない。

こういう行為を批判する人もいるだろけれども、僕はひとりの専門職に就く人間として、心から同情してしまう。

専門職とはいえ僕の仕事とアナウンサーという仕事とではかなり事情は異なる。

しかし、憧れてその職に就き、その仕事を生きがいとした人間の気持ちは痛いほどにわかる。

もし仮に自分の力が及ばない事情により、今の仕事ができなくなった場合に、僕は自暴自棄にならずに生きられる自信はない。

 

最近では大きな会社でもITによる効率化に伴う大規模な人事異動がある。今回のケースとは根本的に事情は違うけれども、似たような状況に置かれる人は多くいるのだと思う。

 

そしてTBSのアナウンス部はどうもこの頃騒がしい。安東弘樹さん、宇垣美里さんがフリーになり独立。その前には枡田さんが事業部に異動になったりもしている。

社長も変わったり長寿番組の「荒川強啓デイキャッチ」が終了したりと、TBS内でいろいろとゴタゴタがあるのは想像に難くない。

 

枡田さんは今回の件に関して、小林豊アナの振る舞いにはTwitterで厳しめの意見をしている。プロ意識やプライドという意味では枡田さんの意見にも共感するところもある。

 

小林豊アナもフリーになるという選択肢があったと思うし、今後そうなるかもしない。

社内に残る以上は、こんな事をしない方が合理的だし、会社員としてプロとしても正しいと思う。

けれど、今回の中継の振る舞いこそ生放送ならでわの良さがあり、小林豊アナのらしさが発揮されていたと感じた。

こういう人がいてもいいんじゃないかと思う。

 

TBSラジオ好きなんだけど、この頃の新番組はあまり面白く感じられない。

さらに愛着のあるアナウンサーが離れていけば、好きではいられなくなるかもしない。

 

ラジオは習慣で聴くメディアで、テレビ以上に生活の一部になりやすい。

そういう事をTBS は考えた編成をしていたように感じていたが、最近はどうも怪しくなっている。

もちろん、僕の感性が古くなっていたり保守的になっている事もあるとは思う。

 

僕は元々はニッポン放送オールナイトニッポンや今はないオールナイトニッポンいいネ!という番組からラジオを聴き始めた。

ニッポン放送は当時も今も人気番組でも、容赦なく終わらせたり、パーソナリティを変える傾向がある。

それがうまくいくときも、失敗するときもある。また、いろいろと揉めて辞めていくパーソナリティもいる。

特に近年好きだったアルコ&ピースの番組の終了によって、ニッポン放送に対する僕の愛着は消滅した。

そういうところと比較してもTBSラジオは長く続く番組やコーナーがある事や、そういうものを重視する姿勢を僕は好きでいた。

変えていく事は必要だとは思うけれども、もう少しやり方があるのではないかと思う。

 

とりあえず、小林豊アナの今後が良いものであってほしいし、立場が危うくならない事を切に願います。

 

 

 

 

似たような服と化粧でタピオカミルクティの行列にならぶ

似たような服と化粧でタピオカミルクティーの行列に並ぶ。そんな人達を見かける。

とにかくそういう人達の気持ちが理解できない。タピオカミルクティーを買ってインスタに、これまた模範に即した似たような写真をインスタに上げるのだろうけど、何が面白いのか、何がそこまで駆り立てるのかが理解できない。

世の中と同じ行動をしないと不安になるのか、そもそも何も考えていないのか。

僕は天邪鬼な自覚があるので、むしろ恥ずかしくして、このタイミングでタピオカミルクティーの列には並べない。それはそれで自意識過剰なんだと思うけど、やっぱり行列に並ぶ人達を軽蔑してしまう。

このタイミングでタピオカミルクティーの行列に並べるか否かは、人としての何かを図るリトマス紙になり得る。そんなことを思う。

 

もっと率直に言えば、タピオカミルクティーの行列に並んでる人達には、意思が無いような、まるでゾンビみたいな不気味さすら感じる。