みのむしXのブログ

過去のあれこれと。日々思ったことをとりあえずは書いていく。

今の人の寿命は長すぎる気がする。

今の人の寿命は長すぎる気がする。

ということをたまに感じる。

僕は29歳で独身で子供もいないのでそう感じるのかもしれない。

年齢や孫や子供がいたら全然違った感じかたなのかもしれない。

何歳くらいが適正とかそういうことはわからないが、長いもしくは長く思えるがゆえに結論を先送りにしたり、次のチャンスを探ったりしすぎている感じが僕にはある。

よく言えば生き急いでいない、悪く言えば本気で決断をしようとしていない。

端的に言って、終わりの見えないモラトリアムの中にいる感覚を感じる。

結婚や出産を望む女性だと、事情が違いそうだが、独り身な男は割とこんな感じに思えてしまう。

例えば恋愛においても、良いと思える相手でもベストな選択出ないように感じたり、恋愛においては良くても結婚となると結論を急ぎたくなくなる。

人口や機会が限られた時代であれば、もっと突き進むような決断をしやすかったのかもしれない。

また、現代は選択肢や自由が多いように見えるが、実際にはそうでないとも感じることがある。ネットには情報が溢れていて、すぐに比較や他人との相違を見つけることができる。

そこを気にしすぎるが故に、決断ができなくなったり、決断を見送ったりはる事がないだろうか?自分には残念ながらそんな傾向がある。

直接的には他者との関わりが減ったのに、間接的により他者の生々しい考えに振り回されている。それもかなり無自覚に近いところで影響を受けている。

太陽の塔などで、おなじみの岡本太郎が本の中で、人間は過去や未来を重視しすぎるが、もっと今の瞬間に注力すべきである。というような事を言っていたが、それがその当時よりも重要に思える。

将来の事も大切ではあるけれども、それを考えすぎて今をおざなりにして良いわけではない。

特に先が長く思える時代だからこそ、この考えは心に置いておきたい。

毎日を真剣に本気で生きろ。なんて事は容易くはできないけれど、いつでも死ぬかもしれないということ、死というものをもっと身近に感じておかないといけないと、自分自身に強く感じる。

もっと人生には死に触れる機会があった方が良い。死があってこその本当の意味で生きる事ができるのかもしれない。

でも、とりあえず少し休みが欲しい今日この頃です。

僕にアムウェイの勧誘をしてきた大バカ野郎へ

人生で初めてアムウェイの勧誘を受けた。

過去に何度か宗教の勧誘は受けたが、マルチの勧誘は初めてだった。

勧誘をしてきたのは仕事関係の人の飲み会で知り合った30台中盤の男性だ。同じ沿線に住んでたこともあり、誘われて5回くらい食事をした。職種も違う方で、自分としては新鮮な話も聞けるので悪い印象はなかった。今思えば、カモとして見られていたわかけで、ほんと人を見る目がないと反省。

そんな感じで、また誘いが来てなんでも「お世話になってる人」を紹介すると言ってきた。

この時点で嫌な予感はした。しかし、紹介してくれる人というのが、割と自分と近しい分野の人だったので筋は通るし、信じたい気持ちもあり、行くことにした。この気持ちを踏みにじられた事ものちに僕を大いに不快にさせた。

2人に会っていろいろ、仕事のこととかを話した。紹介された人とも話が合って盛り上がった。そして、その日は解散。勧誘とかもなかったのでその時は思い過ごしかと思ったが、後から振り返ると会話の端々に怪しい部分はふんだんにあった。紹介された人が、やたら儲かって自由にやってるとか、成功がどうとか、十分に気がつく要素はあったが、やはり僕には信じたい気持ちがあったせいで、この時点では気がつかなかった。振り返るとお人好しな自分に対しても腹が立つ。

後日、また2人に会うことになる。

その日は紹介された方の人の家に遊びに行くことになっていた。

元の知り合いと駅で待ち合わせて、時間まで公園のベンチで話していると、そいつがついに言った「今日の会なんだけどアムウェイの勉強会なんだ。アムウェイって知ってる?」

はい、終わった。僕は完全に心を閉ざした。

ようやく全てが繋がった。この知り合いの瞳の謎の輝きの意味もわかった。

いろいろ、アムウェイを正当化することを言ってきたが無視して僕は帰った。

不快感と失望感だけしか残らなかった。

その人の連絡先は全てすぐにブロックした。

 

 

以下は、僕がアムウェイやマルチを軽蔑する理由だ。思いつく限り上げていく。

 

1つ目に合法であればなんでも良いという考えが気にくわない。

アムウェイに代表されるマルチはネズミ講と違い合法だ。

アムウェイの会員はこのことを強く主張する

しかし、合法なら全て良いとは限らない。

パチンコも脱法ドラッグも合法だし。過去には人種差別も奴隷も合法だった。法律以前に己の倫理や価値観や正義に照らし合わせる事もしないのかと、、、。

 

2つ目にパーティで群れて楽しいアピール。

これがとにかく気色悪い。群れて楽しいことを必死にアピールする。大抵は高級な雰囲気の場所かバーベキューだ。労働から自由になってしたいことって、その程度の陳腐で下らない?と言いたくなる。また、カルトと同じでマルチ以外の知人から避けられるので、マルチのグループの中でしか盛り上がることができないのだ。

虚構と欺瞞と欲望のペラペラパーティ。

普通のパーティだって好きじゃない僕からすれば地獄の方がずっとマシだ。

 

3つ目に不安を煽り、不労所得をアピール。

老後の不安とか収入の不安を煽ってくる。

そして、彼らは不労所得の素晴らしさを説く。

僕は自営業なので、サラリーマンよりは確定申告の経験などから、売り上げと所得の違いや、経費についての概念が身についている。

マージンでセコセコ働かなくても、収入が得られると言うが、グルーブを維持するには勧誘を続ける必要があり、その活動も労働で経費がかかる。このことを理解していないか、意図的に伏せるようにしている。

この不安を煽り、心の隙間に入ろうとするやり方もまさしくカルトだ。

あと、僕は不労所得などそれほど欲しくはない。そら宝くじは当たったら嬉しいが、基本的には、労働や作ったものに対する評価により正当な収入が得たい。マルチ裕福に暮らすくらいなら、僕は貧乏で野垂死にする方を選ぶ。これは自分のプライドの問題でもある。

おそらく彼らは金と時間と仲間(笑)が全てなので、僕のこの考えは理解できないと思うし、理解されたくもない。

 

4つ目にリスクの大きさ。

細かくはもっと賢い人がいろいろ書いてるので、そういうのを見て欲しいが、マルチはリスクが高すぎる。

大抵のことにリスクとリターンがあるが、マルチは自分の信用と人間関係を質に入れて金に変えるようなものだ。失った信用も人間関係も金では、取り戻せない。それが質とは違うところ。多くをうしなった代わりに端金と、ヤバイ目をした仲間(笑)を手に入れたい人はやれいい。法律的にもグレーな部分が多く、勧誘の仕方も事前にマルチの勧誘であることを言わなければ特定商取引法の違反になる。僕の今回のケースもかなり黒に近いはずだ。

 

まだまだ、でてくるけどこの辺にしておく。

僕を勧誘した知り合いよ。これからはあなたは友達でもなければ、知り合いでもない。

僕は共通の知り合いに対しても、あなたがした事を話して注意を喚起する。

あなたは、信用を失い熱心に勧誘を続けるほど友達も失うだろう。

仮に万に一つあなたが、マルチで成功したとしても僕はあなたを軽蔑するし、哀れに思う。

あなたがしている事はそれだけのリスクがある。そして、リスクに人を巻き込むものだ。

あなたも心の隙間に付け込まれた被害者ではあるが、そっちら側に回った時点でもうおしまいなのです。

 

これだけ情報化が進んで、ネットでも調べれば悪評があるのに新たに飛び込む人がいることに呆れる。

一方では、情報化によって別の怪しげなビジネスもたくさん生まれている。

僕が嫌いなブラック企業もそうだが、これらの本質はカルトだ。人の心の弱さにつけ込んで逃げられなくする。

お金を儲けることは否定しないが、夢や理想を説くなら、その手段にも考えを少しは巡らせて欲しい。成功したい気持ちは理解できる。それでも人には超えてはいけないラインや、売ってはいけないものがあると僕は考える。

 

今はとにかく悲しいし、腹が立つ。

僕につけ込む隙があり、やり込めると思われた事も許せない。僕は決してリッチではないが、心までは貧しくない。

知り合いだった人は今後おそらく、辛い目にもあうと思う。悲しい事だが、助ける義理はもうなくなっている。

願わくば取り返しのつく段階で打ちのめされて、目を覚まして欲しい。

もう無関係な人よ、さようなら。

 

 

座間の事件のワクワク感

どうせ不謹慎とか被害者に失礼とか思われる。

でも、本心としてこの事件に凄くワクワクする。犯人がどれくらいのイカれたやつなのか気になるし、被害者との関係性も気になる。

他人事である限り、凶悪な事件でも割とエンタメ的に消費できてしまう。

311の時でさえも、僕はそれほど親身に何かを感じたり、考えたりしなかった。

募金とかはしたけれど、それは義務感や、そうする方が正しいから、そうしただけに思う。

絆とかそういうウェットな感情は無かった。

褒められた事ではないけれど、凶悪事件のウィキペディアの記事を読むのも好きだ。

こういう僕みたいな人は少なくないと思っている。

人は社会のルールや義務に縛られている。

それをどれくらい自覚したり、窮屈に思うかはかなりの個人差がある。

犯罪者というのは、そういう枠から外れた人達だ。だから、そこに惹かれるのはある意味では当然だと思う。

常識人には出来ない事をやってのけている彼らは、どうしようもないほど特別なのだ。

 

特に今回の事件が魅力的なのは、犯人に全く理解できる道理を見出せない事にある。

秋葉原連続通り魔事件や相模原障害者施設殺傷事件なんかは、犯人に主張があり、理解はできないけれど不憫に感じられる部分もあった。

ただ今回の事件は今の所、全くそういう部分が見えてこない。真に理解しがたい犯人である可能性が高い。その紛れも無いホンモノさにどうしようもなく魅力を感じてしまう。

しばらく僕はこの事件の進展を楽しみに生活してしまう。それを止めることはできない。

 

念のために書いておくと、こういう事件を起こしたいとか、犯人に憧れているわけでは無い。

ただ、口では平和が一番とかいいながら、たまには面白い事件が起こるのをどこかで望んでいる事を、否定はできないし、僕だけがそうでは無いと思っている。

 

ハロウィンとの正しい接し方を考える

ハロウィンを楽しめる人が羨ましい。

だけども、そういう人にはなりたくない。

僕はかなりワガママなようだ。

ハロウィンを思い切り楽しむ人たちを、パリピだアホだと馬鹿にしても、もはや虚しい。

なんというか、本心であっても言葉にした時点で負け惜しみの香りを放ってしまう。

望ましいのはこんなイベントがなかったことになって、平穏な10月に戻る事だ。

残念ながらそれは叶わない。せめて自分の中ではない事に徹したいが、こうして論じている時点でダメなのだ。

黙っていても、SNSやいろいろなメディアを通してハロウィンは存在を誇示してくる。

 

もう諦めて「ハロウィンを楽しめない己と向き合う日」として受け止める他に解決策はない。

どこでそのような人間になったのか、エンジョイ出来る人達との差はなんであるのか、これから毎年考えてみる事にする。

いちいちこんな事を気にせずに生きられれば良いのだけれど、それができないのが自分の下らなさだ。

 

たぶん、僕は臆病で面倒臭がりなのだ。

仮にハロウィンを楽しもうとすれば、準備に手間はかかるし、街に繰り出しはしゃぐのにはそれなりの勇気が必要だ。

冷静に考えるとかなりのエネルギーとバイタリティが必要に思える。

こう考えると、なんというか尊敬すら感じる。

彼らは人生を楽しむ事に迷いがない。

 

いろいろ考えてはみたけれど、やはり僕はハロウィンを楽しまないでグチグチしている自分の方が、ハロウィンを楽しめてしまう自分よりも好きなのだと思う。これが僕なりの人生の楽しみ方なのだろう。

今後は最も独自のハロウィンの楽しみ方を考えて実践していく事を目指したい。

うまく折り合いをつけること、何事にもそれが求められるのです。

 

ヤクザにしか見えないおじさんの正体

ヤクザにしか見えないおじさんの正体

私がよく利用するコインランドリーで、たまに居合わせるおじさんがいる。

角刈りに色黒で強面の顔、腕には金色の腕時計。

顔の迫力もあり、ヤクザなんじゃないかと思っていた。

最初に見た時にそのおじさんは、雑誌SPA!の山口組の抗争の記事を読んでいた。

正直、かなりびびった。震えた。

狭いコインランドリーですれ違う時の緊張感は凄いものがあった。

 

先日、このおじさんの正体がわかった。

その日もいつものよう私はコインランドリーにやってきた。

コインランドリーに置いてある一人がけの木製の椅子に、

ヤクザ風のおじさんは座って不良漫画ルーキーズを読んでいた。

私は洗濯物を乾燥に入れて、おじさんと適度な距離を保った場所にしゃがんで、スマホを見ていた。

すると、私の肩のあたりに立てかけられていた松葉杖が倒れてきた。

倒れてくるまで松葉杖に気が付かなかったが、どうやら松葉杖はヤクザ風のおじさんのものだった。

「ごめんね、ごめんね、大丈夫?」とヤクザ風のおじさんは私に謝ってきた。

その声は強面の印象と違い、高く優しさのあるものだった。

私は「大丈夫です」と答えながら、松葉杖を立てかけ直した。

「怪我されてるんですか?」私はせっかくの機会なので聞いてみた。

なんでも、ヤクザ風のおじさんは持病が悪化して腰をかなり痛めたらしいとのこと。

最近手術もして今は療養中とのことだった。

 

「あれ?意外と怖い人ではない?」わたしはそう思った。

しばらく会話したが間が空いて、乾燥機と洗濯機の回転音だけがコインランドリーに響いた。

ヤクザ風のおじさんは怪我しているし、いざとなれば逃げられるだろという、考えた末に私はヤクザ風のおじさんに尋ねた「あの、お仕事とか何されてるんですか?」

 

「あぁ、オレの仕事?鳶職だよ。もう元だけど」言われてみれば納得した。

確かに大工や職人の人にはこういう強面でヤクザに見える人もいる。

さらに、元鳶職のおじさんの話によると、腰の怪我をして仕事は引退して今は療養中とのことだった。5歳くらい若く見えたが年齢も60歳だということだった。

 

おじさんは、その後も少し仕事の話をしてくれた。

鳶職のなど職人の業界でも、最近は福利厚生をしっかりして、正社員じゃないと人が集まらないこと、怪我などの保険もしっかりしないといけないことなどを聞いた。

 

私はこの元鳶職のおじさんの場合も、ちゃんと保険とか適応されたのか気になった。

話しぶりの雰囲気的には、そうではないような感じがした。

どことなく寂しさと憂いを帯びたような話し方が耳に残った。

それ以上、私は何も聞かなかった。

 

先に洗濯が済んだ元鳶職のおじさんは、私に挨拶をしてコインランドリー出ていった。

その姿は、初めて見た時の恐ろしいものとは、すっかり変わった印象になっていた。

 

また会ったらもっと話してみたい。今は凄くそう思っている。

コインランドリーという空間でも他者との距離感や、コミュニケーションはなんだか不思議な魅力がある。喫茶店やバーとは違い、洗濯や乾燥が終わるまでの一時の会話。

今の時代において何だとても素敵なことのように思う。

前にもおばあさんと話し込んだことがあった。

コインランドリーがもたらす時間と空間が私はとても好きになった。

 

 

 

【実体験から考える】ブラック企業とカルト宗教のマインドコントロールはほぼ同じ

ブラック企業と宗教のマインドコントロールはほぼ同じ

私は新卒で映像制作会社(スーパーブラック企業N)に入社しました。

私は3ヶ月で辞めましたが、その後にNHKオウム真理教の特集番組を見ました。

そこで見たマインドコントロールの手法が、

ブラック企業のそれとそっくりだったので、ブログにまとめてみます。

 

カリスマ(笑)

ブラック企業における社長(創業者であることが多い)。宗教における教祖。

これらに共通するのがカリスマ性というやつです。

良く言えば、カリスマ性とは人をその気にさせる能力。

悪く言えば、逆らわせずに自分の言ったことを信じ従わせる能力です。

私がいた会社の社長はまさにこのケースでした。

ほとんど会社には来ないくせに、イケメンで背が高く、話やパフォーマンスだけは洗練されていました。取材などがある時はここぞとばかりにしゃしゃり出て、社員が血反吐を吐きながらやった仕事も、まるですべて自分の手柄かのように話していました。

ワタミの創業者、渡邉 美樹はこれの典型的な例のように感じます。

 

周囲との接触を断つ

洗脳の基本です。人間は家族や友人などまともな人が近くにいると、自分の環境との比較から異常さに気が付きます。

オウム真理教の場合は、出家による山奥での共同生活。

ブラック企業の場合は長時間労働や、泊まり込みでの仕事。

※私はありませんでしたが、それこそ山奥で泊まり込みの研修をすることもあるとか。

どちらもプライベートの時間がなくなり、自分が置かれている状況を冷静に理解することができなくなります。

また、家族や友人と疎遠になり、会社や教団だけが自分の居場所になった時に、

人がそこから抜け出す決断をするのは、容易いことではありません。

これは、会社に長く勤めていた上司を見て強く感じました。冷静さを失い考え方が体制側へとシフトします。異議を唱えようものなら、連合赤軍ばりの総括を求められます。

 

十分な睡眠をとらせない

オウムに限らず、宗教では寝ないでする修行というのが結構あります。

ブラック企業は仕事と言う名の修行により睡眠時間を奪っていきます。

睡眠時間を削ると、人間はますます壊れていきます。

宗教の場合は睡眠不足による一種のトランス状態に意味を持たせたりします。

ブラック企業の場合は、睡眠不足によるミスや生産性の低下を批判し、人の自信を失わせていきます。自信を失ったところに新たな価値観を植え付けるのです。

これがまさにマインドコントロール、洗脳(ブレインウォッシュ)なのです。

「みんなだって眠いのに頑張っている」「出来ないのは意識がたりないから」

などと、わけの分からない事を言います。

しかし、人間は睡眠不足でおかしくなっていると、思いの外簡単に

「そうかもしれない……」と思ってしまうものなのです。

 

自己批判せよ!

これは宗教というより、連合赤軍っぽいです。

ある意味では、行き過ぎた共産主義も宗教と呼べなくもないですが。

他の信者や、仲間の前で自己批判をさせます。これは睡眠をとらせないことと同じで、

人の自信やプライドを破壊していくことになります。

ブラック企業の場合は、朝礼などでの吊し上げがこれに当たります。

大抵の場合は自己批判では済まずに「総括せよ!」となります。

 

地位を与える

オウム真理教などでは様々役職、また修行の度合いによってもランクがありました。

ブラック企業でも、意味のない肩書や役職をやたらと与える事があります。

これには帰属意識を植え付ける効果があります。

周囲との関係性を失ったところに、地位や役職を与えて評価するのです。

そうなれば、人はこれを幸福で組織にとって自分は欠かせないのだと考えるようになっていきます。また組織内で権力を身につければ、人は保身も兼ねて体制を維持しようとします。

 

脱会するのが大変

カルト宗教や危険な組織を抜けるのは大変です。ひどい場合は殺されます。

ブラック企業はたぶん殺されはしないものの、会社を辞める際に苦痛を与えてきます。

私は辞める時に「どうせ外でもやっていけない」「お前は本当に根性がないやつだ」

みたいなことを散々言われました。

実際には、会社にいたときよりも稼いでいるし、どうにかやっていけています。

 

これらのことを善意あるいは正義だと思っている

これこそが、カルト宗教とブラック企業との根本的な共通点です。

既に洗脳された人たちが、悪いことをしているという自覚がない中で、これらのことを行っています。悪意がないから良いのではなく、悪意がないことがよりたちが悪いのです。

 

女性の方がどっぷりはまる男は体制に染まる

これは私の経験によるものです。差別的な意図はないことを言っておきます。

私がいた会社では、長く勤める女性がいちばんたちが悪い傾向がありました。

会社のやり方や正しさを、疑わずに信じ、それに馴染めないものを容赦なく糾弾していました。

男性の多い環境で、地位を確立した女性であることが、そうさせたのかもしれません。

 

男性の場合は、体制に逆らわないほうが楽だし、得だと考えている傾向がありました。

ぽろぽろと会社への愚痴を言いながらも、大っぴらには決して批判をしませんでした。

中には完全に壊れていて、気分次第でパワハラまがいの説教をしてくる、どうかしている人もいました。

男女それぞれで、傾向は違うものの、マトモではないということは同じです。

オウム事件あさま山荘事件の容疑者達にも、私はこのような傾向を感じます。

 

とにかく逃げろ

現在、ブラック企業にいる特に若い人はとにかく早く辞めたほうが良いです。

自覚はなくても、これを読んでアレ?と感じたらよく考えてください。

体や精神が壊れてからでは遅いのです。

余裕があれば、タイムカードのコピーやパワハラの録音もしておくと良いでしょう。

あとで、残業代請求や労働基準監督署に相談するのに役立ちます。

しかし、実際の所は追い込まれている人間にそんなゆとりが無いのが現実です。

どうしようもない時はさっさと逃げましょう。時として逃げることは必要です。

それは、甘えや、根性がないのとは違います。戦略的撤退です。

責任感が強い人は自分の力で組織を変えようとするかもしれません。不可能とは言いませんが、人生を無駄にする可能性が高いと思うのでおすすめしません。

私自身も大学の時の恩師に、「本当にどうしようもない時は逃げていい」と言われたことがとても支えになりました。そういう言葉が届くうちはまだ、まともでいられているという証拠でもあります。

 

腐った組織はどれも似ている

カルト宗教も、連合赤軍も、ブラック企業も目的は違います。

しかし、腐った組織というものは似てくるのです。

それは、そうしなければ組織そのものを維持できない脆弱性があるからです。

こういったものには近づかないようにしたいものです。

また、もともだった組織が変質していくこともあります。

そのような場合は特に内部にいて、一定の地位にあると変化に気がつけないものです。

組織やチーム、大きくは国などを愛するということは、それ自体の考えや、やり方を盲信することではないのです。

学校のいじめにもいえますが、自分の居場所をなるべく複数作ると良いです。

一つの組織や環境に依存することは、冷静さや客観性を失うことになります。

あとは本能に従ってください。体や精神は正直です。おかしな環境にいれば、おかしくなります。

 

 

 

備品と化した店主がいる店

備品と化した店主がいる店

 

私は東京に住んでかれこれ6年。

打ち合わせなどでいろいろな所に行くこともあり、

都内の店にはそこそこ詳しくなった。※高い店にはあまり詳しくなっていない。

「美味い店」とは違う価値観を今回は提示していく。

 

美味い店は調べればわかる

グルメ本でも食べログでも、なんでも調べれば美味い店はわかる。

それよりさらに、信頼できる人や詳しい人に聞くのが一番間違いがないとも思う。

しかし、そこでわかるのは「美味い店」である。

「美味い店」は素晴らしいけれど、それはもうみんなが知っていることなのだ。

 さらに都内には美味い店はたくさんある。良いことなのだがありふれている。

この時代において真に面白いこととは自分で良さを発見することにこそある。

与えられる価値をそのまま楽しむことは正しくは消費なのです。

 

備品と化した店主がいる店

私が今回提示するのは「備品と化した店主がいる店」である。

すなわち、年月の経過とともに店主が店と一体化して備品のように見える店である。

店主の備品度が高ければ高いほど良い。料理の味は普通でいい。

それぞれの生活圏の中でそういう店を自分で見つけることが大切。

 

希少価値が凄い

この手の店はとにかく希少価値が高い。

跡継ぎはいないことが多く、ほぼ数年のうちには食べられなくなるのだ。

それを食べられるプレミア感をぜひ感じて欲しい。

 

歴史を想像しよう

店と店主が歩んできた歴史を勝手に想像しよう。

店を始めたばかりの頃、一番繁盛していた時、寂れていく様子等。

店主に聞いてみても良いのだが、勝手にあれこれ想像するのがオススメ。

 

飲食店だけじゃない

飲食店以外にも備品と化した店主がいる店」はある。

私が気に入っているのは近所の洋服の修理店だ。

ここの店主はかなり背が低い。おそらく145cm〜150cm程度である。

そしてこの店主は、ほぼミシンと一体化している。

ミシンの高さに合わせて腰もまがり、

眼鏡の位置も作業に最適化された鼻眼鏡になっている。

遠目にはどこまでがミシンで、どこからが店主なのかわからないレベルなのだ。

 私はこの姿に感動を覚える。

この「感動」の「発見」をすることが凄く大切なのだと思う。

 

SNSでシェアしないで噛み締めろ

備品と化した店主がいる店」を見つけても私はSNSでシェアしない。

説明するのが難しいのだが、シェアされると感動が陳腐なものになる。

備品と化した店主がいる店」という価値を理解しうる人にだけ、

こっそり店を教えるようにして欲しい。

私は人に紹介する場合は、一緒に直接店に行くようにしている。

一緒に行った友人が備品と化した店主がいる店」の良さを理解してくれると

凄く嬉しいものがある。

 

自分のモノサシあるいは侘び寂び

茶道の世界では形が歪んだ茶器に、いつのころからか価値を見出すようになった。

いわゆる侘び寂びとか言われるものだ。

そういう「感動」や「価値」を「発見」すること、これを楽しんで欲しい。