みのむしXのブログ

過去のあれこれと。日々思ったことをとりあえずは書いていく。

高校野球は好きかい?私は大嫌いだ。

マツコデラックスさんが業界の元高校球児は

クソ野郎だらけという発言をしたことが話題になった。

 

マツコデラックスさんの発言内容。

http://m.huffpost.com/jp/entry/17698982

 

率直に言えば私は高校野球は嫌いだ。

高校球児にも悪い印象が強い。

 

私が高校野球が嫌いになった訳。 

私が高校野球を嫌いになった一番の理由は、

在籍していた私立高校の野球部の輩によるところが大きい。

私のいた高校の野球部は強く、甲子園での優勝経験もあった。

当然、特待生として全国から選手をかき集めていた。

そうしてこいつらが山賊のように、 学校でも街でもヒャッハーしていた。

校内を我が物顔で闊歩し、必ず最低でも3人以上で群れて騒いでいた。

駅でもベンチを占領し、コンビニの前でもたむろしていた。正に世紀末

もちろん全員がそうだったとは言わない。

しかし、あいつらは坊主で日焼けして群れているから私には見分けはつかなかった。

 

私は特殊な学科にいたため、普通科にいた野球部からの直接被害は少なかった。

しかし、それでも彼らの態度や振る舞いには強い不快感を感じていた。

そんな彼らの数人が、用もないのに私の所属する学科の校舎に出向きはしゃぎだした時にその思いは決定的なものになった。

あの他の生徒を見下した態度、何をやっても許されるという思い上がりは今でも忘れられない。私達も歓迎せずにかなり不快な態度を示したので、彼らはそれ以降は殆ど現れることはなかった。

 

そして高校野球の季節、予選の1回戦目の応援に強制参加させられた年があった。

私にはもう不満しかなかった。僻地にある野球場に、自腹で電車に乗って、あのろくでもない連中を応援しないといけないのだ。

私自身もスポーツ部に所属していたが、部員とその親以外が応援に来ることなど殆どなかった。

一方で野球の応援はチアにブラスバンド、駆り出された大勢の生徒。

この圧倒的な扱いの差。迷わず私は途中でバックレた。

高校野球はその知名度を利用して、学校自体のブランド力を高めるもの。そう確信した。

愛校精神の強要、これに似たことは社会のいろいろな場で見られる。

愛社精神、愛国精神、どれも強要されるのは御免被りたい。

だいたいこのようなことが原因で高校野球が嫌いになった。

そして、この私の高校の野球部がしばらくして不祥事を起こした。

全国的なニュースにもなった。私はどちらかと言えば良い気分だった。

 

 

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。 

野球部が嫌いになると、当然として高校野球も嫌いになる。

新聞テレビによる感動ポルノっぷり。泣きながら甲子園を土を集める選手。

女子に対する高野連の時代遅れな対応。連投し続ける球児。それを賛美する大人。

応援をがんばる補欠の部員達。

とにかくすべてがアホらしく感じる。

なんというか、この国の悪しき部分が凝縮されているのが高校野球ではないのかと思えるほどだ。

 

 

部活は教育か。

高校の部活動は教育の一部という話を聞いたことがある。

そう考えると、高校野球はかなりいろいろな面でおかしな事になっている。

個々の問題に関しては詳しい人が指摘すべきだと思う。

 

私は部活と教育は両立するものではないと思う。

野球も含めて部活動やその大会に関してもっと学校から切り離すべきだと考える。

大学に関しては事情が異なるが、中学と高校の部活の仕組みはあまり良いと思えない。

そもそも教師が顧問を勤めるというのも理不尽な気もする。

いっそ、教育と切り離してとことん営利目的にやってみてはどうかと。

派手にスポンサー付けて、選手に報酬も支払って、指導者も専門の人にやってもらう。

個人的にはその方が潔いし応援できるんだけれども、きっと世間は違うだろう。

 

 

スポーツマン幻想を捨てろ

スポーツ能力の高さと精神性は比例しない。

もちろん、どちらも優れた人が世の中にはいることは承知している。

なぜか優秀なスポーツ選手は人格的にも優れているという幻想があるように感じる。

そんな幻想は早く捨ててしまったほうが良い。

そもそも、あまり聖人君子であることを求めるのも健全だと思わない。

紳士球団とか言っても実像は伴わないわけで……

 

この辺のスポーツマン幻想の問題はオリンピックに強く関わってくる。

過去にはスノボードが国母選手が腰パン、不貞腐れ謝罪で社会のおもちゃになった。

オリンピックはスポーツマンの上に国の代表という看板まであるから大変だ。

2020東京オリンピックでもこういう問題は必ず起きると言い切る自信がある。

 

一方で芸術や文学や音楽では、能力の高さと精神性が反比例することが広く認知されているのは不思議な事だ。(※こちらも全ての人がそうではない)

能力の高いクソ野郎。それで良いと思うんです。迷惑をかけすぎなければ。